流動的な文化 / Fluid culture

バンクーバーに来て最も強く感じ学んだことの一つに

Fluidさ、つまり流動する文化がある。



労働環境についての話題で、

日本に比べて海外はスピード感がある、と

表現されることがあるけどそれに近いかもしれない。



でもわたしがここで言いたいのは

スピードではなく、英語話者の中に流れる、

流動する美学のようなもの





たとえば2015年にバンクーバーポップスシンフォニー

(アマチュアのオーケストラクラブ)

で演奏していたときのメンバーは、


今や9割近くが総入れ替えしている



今年2019年に復帰して驚いた。

あのときのメンバーほぼいないじゃないか。



「楽団」「バンド」って、

それぞれの”色”、そしてメンバー構成で生み出される

独自の ”サウンド” が個性と言われる


あのグループはこんなサウンド、

あのバンドはこんなサウンド、

という、それぞれのグループが

それぞれの代名詞ともいえる音色をもつ


だからそれぞれ ”サウンド” が違うから、

同じ曲を演奏しても全然違う

だから音楽は楽しい





のはず。


つまり9割以上のメンバーが入れ替わり続けるバンドに

”色” ”サウンド” は無いに等しい


全体を貫く ”テイスト” ”スタイル” 

(自由な雰囲気、など)はもちろんある



特筆すべきなのは、

本当に文字通り「来るもの拒まず、去るもの追わず」

なのだ。




なぜなら、

自分も来たばかりだから拒むもくそもない、

自分もそのうち去るから、去る他人を追う義理はない、

どんどん人は辞めていくから来る人には大喜び、


やりたい人がいればいい

やりたくなくなったら別のところにいったらいい



という基本概念が一貫している。




日本人のわたしとして、

さらにその中でも特に「縁」とか「情」とか

ネチネチしたものが強いわたしにとって



その概念は相反する思想で、

はじめはすごく悲しく物足りなかった




もちろん誰かが去るときはお別れ会らしき

最後の食事会などはする優しい人達。


でも何年かあとに、「あの当時のメンバー」で

また集まろうよ、というのは難しい


みんなが流動的に各自の人生を選び

動いているのでもうその町にいなかったりする



いわゆる

「ひとまず3年は頑張ってみる」とか

「慣れるまで頑張ろう」

という意識はすごく薄くそれよりも


「より良い道を常に選択したい」

「人は流動するもの」

という感覚が強いように私は感じている




だから仕事もコロコロ変えるし、

同僚が突然やめたり、

新しい人が現れたり、

「出来事」がぽんぽん日常的にあるので、


皆慣れている

「そういうもの」

This is what is is. が場を貫いている




日本を出るとき、

地元で所属していた社会人バンドのみんなが

口をそろえて言ってくれた、

「カナダから帰ってきたらまた戻っておいでね」

「待ってるね」

「また一緒に演奏しようね」

という言葉は、信用できた




もちろんメンバーは入れ替わるものだけど、

一定数は文字通り、何年かあとも

そこにいてくれると思えた。


すでに何十年もそのバンドにいる

熟練メンバーで構成されているバンド。


「帰る場所」とカテゴライズできる




だけどバンクーバーで出会い関わった

あらゆるコミュニティは

流動性が高すぎて

常に変動しているので


「帰る場所」どころか

もはや「場所」ではない



色々な電車が行き来する

大きなプラットフォームなだけであって

ラベリングされた受け皿としての「場」ではない




ソリッドなくせに

Fluidに生きているんだ

なんなんだ